9月30日(日)21時から「消えた天才 ~一流アスリートが勝てなかった人大追跡SP~」が放送されます。(TBS)
長嶋一茂が代表時代に絶対に勝てなかった天才打者は誰なのでしょう?
慶應大学の選手とのことですので、早速調べてみました。
それでは、今回もよろしくお願いします。
長嶋一茂が勝てなかった「天才打者」は誰?
長嶋一茂が勝てなかった猿田和三さん 球界の宝となるべき天才 https://t.co/olT4V6IwTw pic.twitter.com/MT3VcbKRD6
— 夜勤有給 (@yakinuku) 2018年9月28日
大学野球のスターだった一茂が「勝てなかった」「僕が持っていないものをたくさんもっていた」と認め、「憧れ」とさえ語るライバルが当時、存在していた。
その天才打者は一茂とともに日本代表として87年の日米大学野球に出場し、のちにプロ野球で活躍する選手が多くいた日本代表チームで唯一となる本塁打を放つなど、大活躍を見せた。
県内随一の進学校を卒業後、一般入試で慶大法学部に入った男は、慶大野球部で主将を務め、六大学野球の首位打者にも輝いた。ところが、日本野球界を背負っていくと目された天才はプロ入りすることなく、野球の表舞台から姿を消した。
一般入試で慶應の法学部に入るとは凄い、勉強も頑張ったのですね。
その方は猿田和三さんというそうです。
とても興味深いので調べてみました!
猿田和三のプロフィール
猿田和三(さるた かずみ)昭和38年生まれ
秋田県秋田市出身
1986年 東京六大学秋季リーグ 首位打者 ベストナイン
1987年 東京六大学春季リーグ 優勝 ベストナイン
全日本大学野球選手権大会 優勝
日米大学野球 主将
出身地 秋田県秋田市
学歴 秋田市立豊岩小学校→秋田市立豊岩中学校→秋田県立秋田高等学校→慶應義塾大学
猿田和三さんは豊岩小、中学校時代はエースで4番でした。
仲間は幼稚園からの遊び仲間ばかりで、よく言えば伸び伸び野球、悪く言えば競争という意識がない伸びのびした野球環境でした。
それから兄が秋田高校で甲子園に出た影響で名門の秋田高校に進学しました。
毎日の猛練習で名選手の基礎が磨かれていったそうです。
練習は常に午後10時を回っていたようです。
大学は2浪して慶應義塾へ進みました。
2年の春からベンチ入りを果たし、3年春にはレギュラーとして憧れの土を踏むことができる、と思っていた矢先に開幕直前に持病の椎間板ヘルニアが悪化してしまいました。
猿田和三さんは不屈の闘志で治療と並行して肉体改造に取り組みました。
記憶にないほどの練習した結果その秋、首位打者に輝きました。
この時の慶応のエースは同じ東北出身で私と同様に2浪して入学した鈴木哲(西武)
さらには通算31勝を挙げた左腕・志村亮、三冠王に輝いた大森剛(巨人)らに支えられての優勝でした。
日米大学選手権メンバーが凄い!
また日米大学選手権に選ばれた全日本の顔ぶれもそうそうたるメンバーがそろっていました。鈴木、志村、大森のほか、
武田一浩(日ハム)
渡辺正和(ダイエー)
古田敦也(ヤクルト)
長嶋一茂(ヤクルトー巨人)
矢作公一(日ハム)
野村謙二郎(広島)
大豊泰昭(中日)
大塚孝二(西武)
後にプロ野球で活躍する彼らを主将としてまとめあげた。
その日米大学選手権では見事にサヨナラホームランを打つ活躍をされました!
しかしなぜか、プロ野球選手にはならなかったそうです。
やはり、持病の椎間板ヘルニアが原因だったのでは無いかと思います。
プロ野球はとても厳しい世界ですので、怪我を抱えてのプレーよりは仕事を選んだのではないかと思います。
猿田和三の経歴は?
猿田和三さんは慶應義塾から秋田県庁へ就職されています。今夏の金足農業の甲子園の活躍にかなり喜んだと思います。
「秋田の自信につながった。人口減少を打開するために、次は我々大人ががんばらなきゃいけない」
と言っています。
秋田は人口減少が進んでいて、何とか歯止めをかける努力をされています。
野球で培った前向きさと努力でお仕事に励んでいるようです。
いつか野球界に戻ってきてほしいですね!
まとめ
長嶋一茂が勝てなかった天才打者の猿田和三さんについてお届けしました。プロ野球に進まなかった理由については番組で明らかになると思います。
お見逃しなく!