高校野球の名門・横浜高校で伝説のエースがいたことを知っていますか?
それは丹波慎也投手です。
残念ながら病気で急逝されています。
アマチュア野球では有名な渡辺元監督から、50年の指導でも最高の選手と評されています。
松坂大輔投手と同等かそれ以上の逸材に何が起こったのか、調べてみました。
丹波慎也のプロフィール
次は横浜だ!
松坂の出身校そして、忘れてはいけないのが、故・丹波慎也くんが今もグラウンドが見守る学校
今日は個人的に熱い試合が多い#横浜高校 #花咲徳栄 #松坂大輔 #丹波慎也 #高校野球 #甲子園100回記念大会 pic.twitter.com/7ccQehyn20
— りんご飴@竜党 (@Ringo_Dragons) 2018年8月14日
名前:丹波慎也(たんばしんや)
出身:神奈川県横浜市
生年月日:昭和53年(1978年)生
身長:184cm
体重:82kg
兄:丹波幹雄(たんばみきお)
ポジション:投手・4番バッター
丹波慎也投手は渡辺元監督が50年の教え子の中で、
「とりわけ文武両道にたけていた選手」と評されています。
横浜高校の監督になっていたかもしれないと言われていて、人間的にも素晴らしい方だったと思います。
丹波慎也の死因は?
丹波慎也投手の死因は心臓肥大による「急性心筋梗塞」でした。
1995年8月17日に突然亡くなられています。
前日までは、元気でしたのであまりにも突然のことでした。
とても悲しいことだったと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。
丹波慎也の実力や球速は?
丹波慎也投手は1年生の頃から横浜高校のピッチャーとして、登板しています。
選手層が厚い中、ベンチ入りして登板するのは、かなりの実力です。
2年生の夏が終わって、新チームになってから、4試合でノーヒットノーラン2回、3本塁打の驚異的な活躍をしました。
丹波慎也投手の速球の正確な記録は残っていませんでしたが、140㌔は超えていたと思います。
また、丹波慎也投手は速球のキレで勝負するタイプの投手だったと思います。
悲しみを乗り越えて、甲子園出場
丹波慎也投手が急逝したことで、渡辺元監督をはじめとして、選手も悲しみにくれてしまいました。
あまりにもショックなことで、秋の大会の出場辞退も考えましたが、
丹波慎也の母親の「何としても慎也の為に試合やってください」と言われてました。
選手も丹波を甲子園に連れていこうと必死に頑張りました。
当時、センターの守備をしていた松井光介選手がエースを引き継ぎました。
秋の次の選抜を決める、関東大会の宇都宮南戦では9回2死から3店を取って執念のサヨナラ勝ちをおさめました!
強いチームではなかったですが、奇跡の試合を経て選抜の甲子園を決めました!
丹波幹雄プロフィール
名前:丹波幹雄(たんばみきお)
出身:神奈川県横浜市
生年月日:昭和49年(1974年)9月30日生(44歳)
身長:193cm
体重:94kg
弟:故「丹波慎也」さん
経歴・・・並木フェニックス
横浜中央リトル
金沢シニア
横浜高校
ヤクルトスワローズ(1998年ドラフト8位)
残念ながら1軍での公式戦出場はありませんでした。
現在のお仕事:バスの運転手。
兄の丹波幹雄さんも野球をやっていました。
幹雄さんも横浜高校でピッチャーをしていました。
ですが、肘を痛めて2年の春に退部しています。
慎也さん亡くなる一週間ぐらい前、急に
「キャチポールに付き合ってほしい」
と頼まれたそうです。
キャッチボールをして、
「まだできる、ちゃんとやればいいのに」
と慎也さんから言わた言葉が、
再び野球を志すキッカケになった
そうです。
弟の遺志を継ぐことを決めた幹雄さんは、肘を手術して野球を再開します。
1996年からクラブチームのウィンベースボールクラブで猛練習をされます。
1998年のドラフト会議で、ヤクルトスワローズに8位指名され、投手として入団しました。
残念ながら1軍の登板はありませんでしたが、一度野球を辞めた状態から、慎也さんや家族の遺志を引き継いでプロ野球選手になることは並大抵の努力ではないと思います。
上地雄輔との関係が凄い!
上地雄輔さんが中学3年生の時、横須賀スターズというクラブチームで活躍していました。
高校進学も他の甲子園名門校に推薦が決まっていたのですが、横浜高校と横浜商工との試合を見て、「僕も丹波投手の球を受けたい!」と思い横浜高校に進学しました。
上地雄輔さんは高校進学の際には38校もの野球推薦のオファーが来たという逸材でした。
それだけ、丹波慎也投手は影響力のある投手だったのですね。
この時の様子が前のブログに書かれています。
上地雄輔さん前ブログ
まとめ
丹波慎也の球速や死因や
兄の幹雄が野球再開のきっかけについてお届けしました。
お兄さんがプロ野球選手になったことは、リアルタッチだと思い感動してしまいました。
また、当時のチームが悲しみを乗り越えて甲子園に行った話も鳥肌が立ちました!
みなさんの中に丹波慎也さんが生きているのだと思いました。
最後までご覧頂きありがとうございました!